蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ
戦争も終りに近づいた頃でありました。東京も大阪も神戸も都市という都市が、大抵やっつけられてしまいまして、やがてはこの京都も、明日ともいわず同じ運命を待つ外ない時でありました。
私は毎日のように夕方になるとこの町に最後の別れをするために、清水辺りから阿弥陀ヶ峰へかけての東山の高見へ上っていました。
その日もまた、警報がひんぱんに鳴っていた日でありました。私は新日吉神社の近くの木立の下のいつも腰掛ける切株に腰掛けて、暮れて行く町を見ていました。明日は再び見る事の出来ないかも知れないこの町を、言いようもない気持で見ていました。
その時でありました。私は突然一つの思いに打たれたのでありました。なあんだ、なあんだ、何という事なんだ。これでいいのではないか、これでいいんだ、これでいいんだ、焼かれようが殺されようが、それでいいのだ――それでそのまま調和なんだ。そういう突拍子もない思いが湧き上って来たのであります。そうです、はっきりと調和という言葉を私は聞いたのであります。
なんだ、なんだ、これで調和しているのだ、そうなのだ、――とそういう思いに打たれたのであります。しかも私にはそれがどんな事なのかはっきりわかりませんでした。わかりませんでしたがしかしいつこの町がどんな事になるのかわからない不安の中に、何か一抹の安らかな思いが湧き上って来たのであります。私は不安のままで次第に愉しくならざるを得なかったのであります。頭の上で蝉がじんじん鳴いているのです、それも愉しく鳴いているのです。さようなら、さようなら京都。
それからは警報が鳴っても私は不安のままで平安――といったような状態で過ごす事が出来たのでありました。
しかし何で殺す殺されるというような事がそのままでいいのだ。こんな理不尽な事がどうしてこのままでよいのだ――にもかかわらず、このままでいいのだというものが私の心を占めるのです。この二つの相反するものの中に私はいながら、この二つがなわれて縄になるように、一本の縄になわれていく自分を見たのであります。
それからは一週間ほどしてからでありました。ある日のこと、よく出かける山科へ行こうと思って出かけたのでありました。山科の農家や田圃は、いつも愉しくしてくれるのです。道は蛇ヶ谷を経て東山の峰を分け、滑石峠にかかって山科へ下りるのであります。峠の見晴らしは素晴らしいのです。この峠を少し下った処に山桐の大木が一本つっ立っています。私はいつもその辺で一休みするのですが、ふと見ますと、この大きな木の葉がことごとく虫に喰われて丸坊主になっているではありませんか。ぐるりの青々とした松や杉の中に、この木一本が葉脈だけの残ったかさかさの葉をつけて立っているのです。
葉っぱは虫に喰われ、虫は葉っぱを喰う――見るからにこれはいたましいものそのものでありました。
それにしてもこの日はどうした日だったのでありましょう、私は見るなりに気付いた事でありましたが、いたましいというその思いの中にこれまでかつて思った事もない思いが、頭をもたげたのであります。葉っぱが虫に喰われ、虫が葉っぱを喰う――これまではこうより外に見えなかった事が、今日という今日はどういう日だったのでありましょう。
葉っぱが虫に喰われ、虫が葉っぱを喰っているにもかかわらず、虫は葉っぱに養われ、葉っぱは虫を養っている――そうその時にはしかと見えたのであります。
喰う喰われるといういたましい現実が、そのままの姿で養い養われるという現実とくっついているというのは、そもそもこれは何とした事なのでありましょう。
この間中から、もやもやしていた、これでいいのだ、これで結構調和しているのだというような、しかしつきつめると何でそうなのだかわからなかった事が、ここで答えを得たのであります。虫と葉っぱは明らかに、かく答えたのであります。不安のままで平安――そうなのか、そうだったのか。
蝶が飛んでいる、葉っぱが飛んでいる、暮れるまで山科の村々を私は歩きまわっていました。
この世このまま大調和
(「PHP」昭和二四年)
青空文庫より引用